とまとの推しが尊い

ジャンルごった煮、推しにまつわることを書き連ねるブログ

舞台「マスターピース」感想と考察

 

ネタバレばかりなのでご注意を。

 

 

大阪公演→東京公演→配信、と3回観た感想 

 

東京公演では

マギーさんの「ラブレター」効果、すごい。大阪公演で感じていた違和感とかチグハグ感がかなり消えていて、ものすごくシームレスなお芝居になっていた。そして笑いどころも増えていた!!話の大筋は同じなのに、ちょっとしたセリフとか表情でここまで分かりやすく、面白くなるんだ、お芝居は生物だって、こういうことなんだ。改めてその奥深さに感動しました。

ハプニングで大泉さんが脛をぶつけて台詞言えなくなって「……大丈夫?」って聞かれて芝居止まってたの、個人的にはちょっと嬉しかった。あ、これお芝居なんだ!目の前で、生で世界が広がってるんだ!っていう興奮を味わえました。本気でふくらはぎを抑えたりさすったりしてる大泉さん、可愛かったな……(息ができないくらいの激痛だったそうです……)

という感想でした。
今回配信を観て思ったこと。 

札幌公演、ホームだからかお芝居が生き生きしていて楽しかった!!枕投げシーン最高に可愛かった……


東京公演と比べて、芝居の緩急とかテンポが物凄く良くなっていてびっくり。どこまでも芝居の精度が上がっていく5人組、凄いなぁ……。今回、雑誌の取材でみなさんの向上心が高まっているのをひしひしと感じたのですが、本当にすごい。魅力的なおじさまたち……。
諸澤さんの楽観っぷりと諦観っぷりとか、猫屋さんのぽんこつっぷり、茶山さんの振り回されっぷり、灰島さんの奥手っぷり、高田さんの聡さ……。それぞれのキャラの魅力が、回を追うごとに増していた。

カーテンコールはホントに楽しくて、5人の想いが伝わってきて、ぼろぼろ泣いてしまった。
桜吹雪の量がエグすぎて爆笑だったけどw

私はとにかく猫屋さんと乙骨さんのペアが好きだなぁ……続けることを諦めた男と続けてしまう男。光と陰のように見えて、実は陰と光の組み合わせ、っていうのが美味しい……。どちらかが凹んだ時に、もう片方が背中を押してくれる。いい関係性ですよねぇ……。

 

とにかく安田顕さんの大ファンになってしまった。毎回、舞台を反芻するたびに「あの俳優さん誰だっけ、ほら、あの、高田さん演じられた女性……あれ、待って、安田さんだわ。待って?あれ?あれ、6人居なかった?あれ、いや、うん、ごめん5人だわ、NACSは5人です」ってなるんですよね……。がむしゃらで外見には無頓着な乙骨さんと聡明美麗な高田さんがどう両立しているのか、意味わからんすぎる。世界の神秘。世界ふしぎ発見!
いやBIB拝見したときも役への入り込み方凄ぉ……って感動してたんですけど。なんかもう、今回で完全に圧倒された。

 

本公演の考察

 

開演前に映画音楽が流れる

最初に映画が始まるブザーが流れ、数字のカウントダウン

チームナックス25周年記念」という投影

途中に何度も日本語の文章での説明が入り、猫屋さんが活動弁士のように喋る

最後もフィルムで締まって、ラスト、暗転して映写機が止まる音がする。

やはりこのお芝居全体がひとつの「映画」である、ということは間違いないのだと思いました。
私達観客は、「映画」を観る「観客」になっていて、私達が最後に拍手をすることで、「マスターピース」という「映画」が完成する。

この「マスターピース」という映画は、
A「『侍』というタイトルがついている、灰島たちが書いた映画」の物語(虎之助とお花の恋物語)

B 灰島たちの奮闘記(灰島と高田の恋物語)
とが混ざりあった映画。
総天然色で、ラストの桜がぐっとくる、題材が戦争でない、笑えて胸に来て、ちょっぴり苦い映画。私たちが日常生活で感じる、「好きなことを続けることの楽しさや苦しさ」を代弁してくれる映画。私たちが置き去りにした淡い恋心を拾いあげてくれる映画。

Aは、七人の侍を観た彼らが熱海に再び集まり、今度こそ企画が潰れずに書き上げた映画なんですよね。最後、Aのラストシーンが「上映」されているってことは……!乙骨さんの書いたものが、ちゃんと日の目を浴びたんだね!!!!乙骨さんよかったね!!公開されて!!!疫病神引き連れてても一緒に書いてくれる仲間がいてくれて!!!!
ラストで「また五人の侍が集って」って言い方されてて、脚本家は「刀をペンに持ち替えた侍」っていうのがスッキリと示されててよかった!し、やっぱりこの五人でチームなんだねって伝わってきてグッときた。いつの間にか友人になってるし……私友情モノに弱いんですよ……はぁ……NACS尊い

あとお仕事モノとしてのBは仕事にまつわる名言だらけで、誰しもの心に刺さるのがいいですよね。天才と言われる人たちも苦労している。仕事は一部の天才だけがやればいいのか?才能が無くても続けることに意味があることだってある。一度やめたって、生きている限り道は続いている。真面目にやり抜く美学もあれば、真面目に気分転換することの方が大事という見方もできる。色んな人の色んな葛藤が混ざり合っていて、ふと心にひっかかる一言を投げかけてくれるのが美味しい物語でした。

 

そして、
A「虎ノ助とお花の映画」の内容はBでの「灰島と高田の恋物語」や「猫屋の生き方」とパラレル性をもっている。
Aで虎ノ助がお花に「城は消えても、あなたが生きるところが城になる」と言う→Bで、もう役者はやめたのだと悲しみをにじませる猫屋さんに、乙骨さんが「生きている限り、続いている」というニュアンスの言葉をかけるとか。
(ここ、高田さんが猫屋さんに「続けないという選択をしたことは間違っていない」みたいなニュアンスの言葉をかけたのとも対照的で面白かった)

灰島さんが自分を虎ノ助になぞらえてるのとか、Aの「映画」とBの「恋文」をパラレルに扱ってる点は、大阪公演よりも東京公演の方がはっきりと示されていたように思います(あまり記憶力に自信はないですが、大阪公演ではかなり読み取りづらかった)。
冒頭、出会いのシーンを練るときの灰島のセリフ「これじゃ足りない、もっと鮮烈な始まり方がいい!」が、最後に恋文を書くところでの「もっと鮮烈なはじまりがいいんです!」と完全に一致していて、A映画の「脚本」とBでの「恋文」がどちらも「傑作」を産むための文章という点で一致しているんだ、パラレルなんだ、っていうことが分かりやすくなっていた気がする。

ここで、灰島と高田の恋物語について掘り下げて行こうと思います。

A映画の脚本は灰島曰く「不器用なふたりの物語」。
お花は男とひどい別れ方をしたところで虎ノ助と出会い→まだつぼみの桜をふたりで見て、お花が『見られるといいですね』という→城に火をつけられて追手に追われるお花と虎ノ助→虎ノ助は死んだかと思われたが、最後実は生きていたことがわかる。桜の下、言葉をかわさずとも、ふたりで並んで桜を眺める。

灰島は一世一代の大舞台での大告白で「あなたへの思いは映画の中にしたためました。どうかそれを、並んで観てください」と言っていた。
これは紛れもなく、「虎之助とお花の恋物語は僕とあなたの物語だ」という告白の言葉。
でもこれって、あの「喫茶ヒヤシンス」のある世界では、灰島が高田への想いを虎之助とお花になぞらえた映画が「上映されている」、ってことなんですよね。
でも、灰島が告白をした時点ではあの企画は潰れており、彼らが結末を書けてもいない脚本が映画として上映されることはない。
だから、灰島と高田が歩いている「東京」は、「灰島たちが脚本を書き上げ、その企画が通り、それが上映されている世界線の東京」、「架空の東京」なんですよね。

そして灰島が「あなたに隣でその映画を観てほしい」といい、高田が「はい」と答え、2人には「拍手が聞こえ」、高田は「……読み合わせみたいになっちゃいました」と言う。
この瞬間、恋文という「脚本」が生み出した「架空の東京」の世界が閉じ、高田を観客とした「マスターピース」が完成している(高田さん、女優としても出演されてるけど笑)。
そして、続いて灰島が「お付き合いしてください」と言い、高田が断る。
これは私の解釈ですが、高田さんは喫茶店の話あたりから灰島の書いた恋文(=虎之助とお花の恋物語と重なる灰島と高田の恋物語の脚本)にのっとって「読み合わせ」をしていたのであって、「恋人用の席は?」と尋ねてみたり、灰島と手を繋ごうとしていたのも、灰島の広げた妄想の世界の中だったから……ということなんじゃないかと。高田さんはものすごく空気を読んでくれる子だからこそ、灰島の繰り広げた芝居にノッてくれてたんだと思うんですよ。
あの一世一代の告白は、あくまでも脚本ありきの妄想の世界。
高田さんの、恋のときめきをぎゅっと凝縮したような振る舞いも、泡沫の演技。
もしかしたら「現実と夢の区別がつかない」灰島さんのことだから、高田さんの演技も灰島の妄想なのかもしれない。
だからこそ、あそこで「拍手が聞こえたような」「ええ」というやりとりをして、そこで芝居は終わったのだ、ふたりは現実世界に戻ってきたのだ、と私たちに伝えたんじゃないかと。
そう思いました。
(安田さんがカテコで教えてくださった、喫茶ヒヤシンスが黒澤監督作品において焼け野原で喫茶店の「おままごと」をするシーンのオマージュだということも、あのシーンが架空の世界であった、あの二人のやりとりも幻だったのだ、ということなのだと思います)

それでは、告白周りの高田さんの振る舞いが、灰島の脚本に則ったものだったとして。
どうして高田さんは灰島さんを振ったのか。
茶山さんは「思わせぶりなことして……相当なタマですね」と言っていたけれど、そういうことでもない気がした。
私はここで、高田さんの行動を4通りに解釈しました。

1 高田さん、灰島のことは好きだったけど数年も待つほどの覚悟はなかった説
2 高田さん、灰島に「東京」と「映画」への憧れを重ねていただけ説
3 高田さん、まどろっこしい人が苦手説
4 高田さん、自分の存在が灰島の邪魔になると思ってしまった説

順に説明します。

1 高田さん、灰島のことは好きだったけど数年も待つほどの覚悟はなかった説
先程の理解でいくと、灰島さんが「想いをしたためた映画を並んで観てほしい」というのは「今さっきポシャッた企画がいつか日の目を見て上映されるまで待ってほしい」ということになる。それって何年後ですか?という当然の疑問が湧きますね。
たった一ヶ月台本作りを手伝っただけの人と添い遂げるために、何年も独り身でいることを選択するだろうか。当時の恋愛観は分からないけど、そこまでするほど二人の仲って親密でしたっけ……という。
高田さん的に「もう東京帰るっていうから言葉で伝えてくれって言ったのに、結局肝心の言葉を聞ける(=想いをしたためた映画を観る)まで数年待たされるんだ……?」と思ってしまったのでは、という説。

 

2 高田さん、灰島に「東京」と「映画」への憧れを重ねていただけ説 
高田さんにとって灰島は、「新しい世界を見せてくれた人」なんだよね。
高田さんは映画を見たことはほぼないけど、文学は好きで、読み書きもできて、お話を創作することにも興味があって。でもその才能が発揮されることはなくて。女中の皆さんも高田さんが漢字を読んだ時に驚いてた(気がする)から、身近な人たちも彼女の才能に気付いてなかったんだと思う。
そんな高田さんの前に突如現れた灰島。高田さんの言葉を脚本に採用し、読み合わせにも呼んでくれて、映画の楽しさ、映画を作る楽しさを教えてくれた灰島。自分の憧れる街「東京」をリアルに想像させてくれる灰島。
高田さんは確かに灰島に好意を抱いてたと思うけど、それは異性としての好意よりも映画作りという仕事仲間としての好意が大きかったんじゃないかな。
だから、いつか出来上がった映画が上映されたら是非観に行きたいと思うし、その時は一緒に頑張った灰島と並んで観劇したいけど、それは別に恋愛的に付き合いたいというのとは違うなぁ、ということだったという説。

 

3 高田さん、まどろっこしい人が苦手説
高田さん、完全に灰島から高田への矢印把握してるし、茶山さんに「灰島はあなたに本気です」と言われて「本当にそうかしら」と疑っている。
そして、茶山さんに映画が出来ないかもって言われて驚いてから、灰島に「あなたには聞こえているけど見えていない」「映画と違って、言葉にしないと伝わらない」と言っているんですよね……。
(そして乙骨さんが灰島に「もう余計な美学にとらわれず、言葉で伝えるんです。言葉の刀は抜かなければ相手には届かない」と言うのがパラレルになっていて良きですね)
これ、高田さんの「まどろっこしいものが苦手」な面が現れてるのでは?と思ってしまう。
高田さんってすごく現代的な思考の持ち主だと思っていて。「女心が分からない」と嘆く灰島に対して「私も女心なんて分かりません。分かるのは私の心だけです」っていうところとか、凄くしびれた。「女脳、男脳」とか「女心、男心」みたく世の中を「女は〜、男は〜」という二項対立に落とし込むことがおおっぴらに否定されはじめたのって、かなり令和の感覚だと思っていて(まぁまだまだその二項対立にとらわれている人って凄く多いけど)、そういう物差しに縛られず、そのことをはっきり主張できる高田さん、格好いいなと思った。よくぞ言ってくれた!というか。

そんな凛とした高田さんだからこそ、ひとりでは恋文も書けず、告白も仲間から冷やかしの目で見られる場所でする……しかも告白の台詞も、肝心の「付き合ってください」までの小芝居があまりにも長い……という灰島さんとは、付き合っても続かないなぁと思ったのではなかろうか。
高田さんは灰島たちが東京に帰ると知って、「映画は言葉がなくても伝わるけど、私には言葉で伝えてほしい」とハッキリ告げたのに、灰島は「想いは映画の中にしたためたので、それを並んで観てください」という変化球で返している。
あと……これは私が聞き漏らしてただけだったら灰島さんごめん!なんですけど、灰島さんって高田さんに「好きです」って言ってましたっけ。恋文の架空世界が閉じてから、灰島は「付き合ってほしい」とはちゃんと言葉で伝えているけど……。架空の世界の中ですら、「想いは映画の中に描きました」としか言ってなかった気がして。
高田さんは最初からストレートに「あなたが好きだ」と言ってほしかったのではないか……という説。

(恋文書くときに猫屋さんが「まえがきが長すぎるから結論を先にしましょうや」的なこと言われてたけど、肝心の告白までの前置きが長すぎるのは、乙骨さんの告白との類似性を出したかったのかな?と思ったりもした。長すぎると怒られた乙骨さんと、長いなぁと思ってもそれを言わない高田さん……乙骨さんは妻子に数年越しに出ていかれてるから、その場で振ってくれるだけ高田さんの方が優しいような気も……)
(いや、なんていうのかな……私だったら、告白の前に突然小芝居に付き合わせてくる人、ちょっと無理かも……と思っちゃうな、っていう……。ごめんね灰島さん……第三者目線で見てる分には可愛いですよ灰島さん……きっと貴方と相性のいい人がどこかにいるよ……)

 4 高田さん、自分の存在が灰島の邪魔になると思ってしまった説
 灰島の告白を断るとき、物凄くつらそうな顔をしていた高田さん(配信で初めて高田さんの表情をちゃんと見れました)。
 彼女の表情を見たら、高田さんは灰島に特別な想いを抱いていることは間違いないのだと思いました。どうでも良い男からの告白を断る表情ではなかった。
 茶山さんに映画が出来ないかもって言われて驚いたときの高田さんの表情、真に迫るものがあって。真面目だけが取り柄の灰島さんが変わってしまった(風呂に入るようになってしまった)のは自分のせいで。映画の企画が閉じてしまったのも、自分のせいなのではないか。
 そうやって、自分が灰島にとって「疫病神」になってしまうことを恐れて(ここが乙骨さんとのパラレル性なのかも!)、自ら断ったのかもしれないなぁと思った。そうでなかったら、あんなに悔しそうに、悲しそうにお断りしないんじゃないかな、って。

 

私が彼女の行動を読み解くとしたら、この4つのミックスという感じでしょうか。
大阪・東京は前3つのミックスかと思っていたのですが、配信でしっかり高田さんのお顔を見たら4がかなり強い要素として混ざっていたのかもしれないなと思いました。
大阪→東京→配信と、凛とした→翳、色気のある→可愛らしい、と高田さんの印象が変わったので、お芝居も少しずつ変わっていっていたのかなぁと思います。
まぁ、もう決まっていた人がいた説とか、小泉姐さんの恋路を邪魔したくない説とか、自らAの脚本の展開をなぞりたかった説もあってもおかしくないですし……解釈は無限大ですね。

 

さて。
ラストシーン、茶山さんが「高田さんのこと何年も待たせて……」と言っていたのは、灰島が「想いは映画の中にしたためました!」と言ったA「映画」がようやく作れる、ということだろうから、やっぱり数年後に熱海で満開の桜を実際に観て、遅れてやってきた乙骨さんに高田さんの姿を重ねてしまって、その瞬間にA映画の納得いくラストシーンが灰島に降りてきた……そしてそれがめでたく上映された……私たちはそれを見届けた……ということだと思った。

女中たちで話しあってるときに、"お花が十年間純血を守りきりひとりで虎ノ助を待っていると、死んでいたと思っていた虎ノ助が現れて「待たせたな、お花」と言う”というストーリーが生まれていて。
最後に灰島演じる虎ノ助が「待たせたな、お花」と声をかけていることから、Aのラストはハッピーエンドなんですよね。

そしてAは映画だから、高田さんの要求とは違って、「言葉がいらない」二人なんですよね……はぁ。
ニクい纏め方ですね。


ラストが「灰島の想像だ!」とか「いや、あれは高田と灰島が付き合うハッピーエンドだ!」と感想が分かれていること自体、ハピエンにするかビタエンにするか散々迷っていた灰島たちが産み出した、「そのどちらとも取れる終わり方」になっているということなんじゃないかな。

 

ちなみに、あれを灰島高田の二人が結ばれるハッピーエンドだと解釈したい場合には、
Aで「死んでいたと思われた虎之助が実は生きていて、二人が結ばれる」のに則って、高田さんが猫屋さんにお願いして「アキちゃんは結婚してやめた」と灰島に伝え、落胆した灰島の元に「実は貴方を待っていましたよ」という感じで現れた……という見方になるのでしょう。
 全体で語られていた「生きている限り、終わりはない。続いている」というメッセージとも合いますね。生きている限り、ふたりが結ばれる可能性はある。一度振られて終わったように見えても、生きている限り。灰島と高田の恋が成就して、それがそのままA映画のラストとなって上映される。
AもBもハッピーエンド。
……まぁ、そういう解釈もアリだよねー、ということで。

追記。

serai.jp

 ちょっとまって下さい!?!?リンク先読んでください!?!?
これはこれはマギーさん天才すぎる、これをこの舞台でオマージュするのは、ほんと、どんぴしゃだ……!!!凄い……!!!!

 

追記その2

じっくり反芻していたら、これは確かに恋物語ではあったけど、今回の舞台のテーマは「生きていれば、必ずまた作れよう」だったんだな……
あの冬、熱海で打ち切られた恋愛映画企画。その恋愛映画が最後、映画館において上映されているということは、「生きていれば、必ずまた作れよう」の現れに他ならなくて。その意味で(誰と誰が付き合ったとかいう話を置いておいて)……つまり、彼らの仕事は日の目を見たという意味で、この舞台はハッピーエンドなんだな。
↑私は、今回の舞台は「我々観客が昭和の映画館の観客となって観劇している」という設定だと思っているので……。

彼らは戦争を生き抜いた者たち。だからこそ、「生きていれば」に意味が乗る。
噛めば噛むほど味がしますね。
黒澤になれなかった諸澤。俳優になれなかった猫屋。脚本家になれなかった茶山。作品が日の目を浴びず、結婚生活を全うできなかった乙骨。恋が成就しなかった灰島。才能が活かせなかった高田。なにかを諦めざるを得ない市井の人間が、それでも生きている、生きていれば、また作れる。
ラストの華々しさとは対照的にかなりのヘビーな設定でしたが、だからこそ猫ちゃんの可愛らしさとラストの桜の美しさが救いでしたね。

ちょっと思ったこと


お気持ち表明。
スターピース最高!これぞ傑作!!今までの本公演のなかで一番よかった!!!!
という気持ちだけでいたい方はぜひ閉じてください。

 

 


いちNACSオタクのぼやき。

 

 

大阪公演で感じた「いや、脚本だめになったから恋文って……それでいいんかい!苦笑」という感情は、東京公演ではかなり減っていた(まぁ強引な展開だなとは思うけど)。もちろん、配信でも。
それは色んなところで脚本と恋文のパラレル性が語られたおかげで、そこの互換性が腑に落ちやすくなっていたからだと思う。うまく言えないけど、かなり自然になっていた。話の流れも、キャラの感情の発露も。

でもなぁぁぁ!!!!もっと諸澤さんと茶山さんの見せ場が欲しかったよぉぉぉ!!!!正直言うと!!!!!
だってもう、名前の出し方も「主演・大泉洋」って感じで……いや、あくまでも「映画」に寄せた舞台だから仕方ないけどさぁぁ………私は「この5人の中だと大泉洋の名前が4番目に出る」チームナックスが好きなんですよ…………いや大泉さん最推しだから、嬉しいんですよ?めちゃ嬉しいんですけども……全員の見せ場が欲しかったなって……わがままだって分かってるけど……箱推しなんですよ……皆の決め台詞が欲しいんですよぉ……

もちろん、茶山さんのおかげで脚本→恋文シフトが説明されるから大役なんですけど(ここの転換、大阪→東京→大千秋楽で物凄く分かりやすくなっていた。相当戸次さんがセリフ練られたんだなって思う)、もっとこう……分かりやすい見せ場が……。諸澤さんも駄目だけど憎めないような、カラっとしてるようで湿っぽいような、絶妙な役どころだったのですけど……とても美味しかったのですけども……。

 

まぁ、そういう脚本を作るのは難しいからこそ、今までの本公演でメンバーで脚本会議するときに荒れてたんでしょう……今回のお芝居を観て、今まで5人がどれだけ頑張ってきたのかが伝わってきて勝手にエモくなりました(コスパのいいオタク)

とはいえ大千穐楽はテンポがよくなっていて(あと配信で各キャラのアップが見れたから、それぞれの気持ちがわかりやすかったのもある)、そこの不公平さがちょっと軽減していた感じがしたな。
配信に強いお芝居なんだと思う(2回ともかなり後列で観たので、役者さんの顔が見えづらく、ストーリーの運びにかなり意識が行っていたので、少し不満感があった。配信だとかなり満足感が強かった)
もっと前列で観ていたら感想も変わったのだなぁ……そういう意味で、舞台って本当に変幻自在だな……という気付きもありました。